幕末 [1774-1867] | 明治 [1868-1912] | 大正 [1912-1926] | 昭和 戦前・戦中 [1926-1945] | 昭和 戦後 [1946-1989] | 平成 [1989-1995] |
年次 | 日本史 | 弓道史 |
1868 (明治01) |
戊辰戦争勃発 [1月3日] 五ヵ条の誓文 [3月14日] |
|
1869 (明治02) | 戊辰戦争締結 [5月18日] |
斉藤半六(00)、石川県に生まれる [6月] 屋代ジョウ[金+丈]三(00)、誕生 [10月29日] 徳山勝弥太(00)、誕生 [11月28日] |
1871 (明治04) | 廃藩置県 学制が定められる |
石原七蔵(00)、誕生 [3月15日] |
1973 (明治06) | 地租改正 | 本多利実(37)、権少講義 [10月] |
1874 (明治07) | 大平善蔵(00)、会津・若松一之町の金物問屋、江戸矢の長男として生まれる。(参照: 『会津人物伝』「弓道日本一大平善蔵」) [10月12日] | |
1875 (明治08) | 本多利実(39)、内務少務 [6月] | |
1876 (明治09) | 萩の乱 | |
1977 (明治10) | 西南戦争 | 小笠原清明(00)、誕生 |
1878 (明治11) |
宇野要三郎(00)、誕生。青森県黒石 [9月15日] 長谷部慶助(00)、誕生。東京中野 [11月24日] |
|
1879 (明治12) |
関口源太(39)、上京して神田今川小路に道場を開き弓術復興 小笠原清務(33)、小笠原清道(12)とともにアメリカ前大統領グラント来日に流鏑馬を披露し、神田に弓馬礼法教場を開く。[12月] |
|
1880 (明治13) |
小笠原清務(34)、吹上御殿にて流鏑馬を演じる 阿波研造(00)、宮城県大川村佐藤傳佐衛門の長男として誕生 [4月4日] 大内義一(00)、常陸太田に生まれる [10月] |
|
1881 (明治14) | 板垣退助、自由党を結成 | 大平善蔵(07)、家業である金物問屋を継ぐ [9月] |
1882 (明治15) | 大隈重信、改進党を結成 |
浦上栄(00)、誕生 [3月8日] 徳永純一郎(18)、松本潜(道雪派?)に弓術を学ぶ。 |
1883 (明治16) | 鹿鳴館落成 | |
1884 (明治17) | 秩父事件 | 碧海康温(00)、誕生 |
1885 (明治18) | 伊藤博文、内閣総理大臣に就任 [12月22日-] |
神永政吉(00)、誕生。栃木県足利市 [6月1日] 本多利重(77)、死去 [12月3日] |
1887 (明治20) | 保安条例公布 [12月25日] |
関口源太(47)、天覧の際に星兜を射抜く。 小笠原清道(20)、父弟門人とともに徳川氏世田谷邸にて流鏑馬披露。 大平善蔵(13)、鈴木寿衛から道雪派弓術を学びはじめる。 |
1888 (明治21) |
樋口実(00)、誕生 [10月3日] 安沢平次郎(00)、新潟県に生まれる [11月10日] |
|
1889 (明治22) |
大日本帝国憲法発布 [2月11日] 大日本帝国憲法施行 [11月29日] |
本多利実(53)、『弓道保存教授及演説主意(一名弓矢手引)』を著し、弓道の最高に本腰 (参照: 東大弓術部HP内弓術部の歴史) 本多利実(53)、弓術保存継続会を設立 [8月] 本多利実(53)、神田に弓術練習所を開く [10月] 本多利実(53)、24年まで巣鴨村村長 [12月-] |
1890 (明治23) | 教育勅語発布 帝国会議が開かれる |
岡内木(42)、竹林派弓術指南 |
1891 (明治24) | 大津事件 [5月11日] |
東京帝国大学弓術部創立 (参照: 東大弓術部HP内弓術部の歴史) 吉田能安(00)、誕生。岡山県高梁市? [9月24日] |
1892 (明治25) |
浦上栄(10)、祖父直置(64)より日置当流(印西派)を学ぶ 石原七蔵(21)、福岡藩士伊丹乾七に吉田大三は弓術を学ぶ 徳永純一郎(28)、浅野尹に道雪派弓術を学ぶ 本多利実(56)、第一高等学校弓術教授 [12月24日] (日付参照: 東大弓術部HP内弓術部の歴史) |
|
1893 (明治26) | 高木タスク(00)、誕生。埼玉県久喜市 [1月3日] | |
1894 (明治27) | 日清戦争勃発 [7月25日] |
千葉胤次(00)、宮城県に生まれる [1月2日] 関口源太(54)、『四巻の書』を著す [11月] |
1895 (明治28) | 下関条約調印 [4月17日] |
大日本武徳会発足 [4月17日] 冨田常正(00)、誕生 [6月6日] 関口源太(55)、大日本武徳会弓道精錬證 [10月] |
1896 (明治29) | 百合野稔(00)、誕生 [1月8日] | |
1897 (明治30) |
石原七蔵(26)、大川薫彦に竹林派弓術を学ぶ 大平善蔵(23)。戊辰戦争の影響で、会津地方の長引く産業の沈滞に憂いを持った善蔵は、実業青年会を組織し、産業振興を図ります。まず明治30年に自ら関西地方を視察し、ここに刃物職人を派遣して技術を習得させたり、のこぎりなどの製造では、原料を品質にばらつきの出る玉鋼から大量生産しても品質を保つことができる洋鋼にしたりするなど、それまで一般的だった手法を一新しました。また札幌支店を解説し、北海道開拓に使う森林伐採用の残り義理の販路を広げ、会津金物の信用を確立しました (参照: 『会津人物伝』「弓道日本一大平善蔵」) |
|
1898 (明治31) | 徳山貴徳(73)、死去 [3月27日] | |
1899 (明治32) | 阿波研造(19)、阿波家を継ぐ | |
1900 (明治33) |
本多利実(64)、権少教正 [1月] 阿波研造(20)、木村時隆(58)に入門し雪荷派を学ぶ。後免許皆伝 浦上直置(72)、上京し市ヶ谷八幡社内及び横須賀米ヶ谷に弓術稽古場を開設 関口源太(61)、死去 [3月6日] 本多利時(00)、生まれる [3月19日] 本多利実講述、長谷部言人筆『弓道講義』発刊 [7月] (参照: 東大弓術部HP内弓術部の歴史) |
|
1901 (明治34) |
徳永純一郎(37)、免許皆伝(道雪派) 本多利実(65)、日本体育会弓術部教師 [5月] |
|
1902 (明治35) | 日英同盟締結 [1月30日] |
大日本武徳会、範士・教士の称号を設け、精錬証は教士の下位の称号となる 大平善蔵(25)。このほか、明治35年から二年間、資材を投じて会津金物品評会や全国鋸材木品評会を開催するなどし、名声を全国に高めました (参照: 『会津人物伝』「弓道日本一大平善蔵」) 本多利実(66)、東京美術学校弓術師範 [1月] 中野慶吉(00)、誕生 [4月10日] 東京帝国大学の弓道場が三四郎池の傍に新設、弓術部再興発会式 [5月] (参照: 東大弓術部HP内弓術部の歴史) 本多利実(66)、東京帝国大学弓術師範 [五月三日] (参照参照: 東大弓術部HP内弓術部の歴史) 本多利実(66)、『弓道大意』発刊。 |
1903 (明治36) | 本多利実(67)、華族会館弓術教授 [9月] | |
1904 (明治37) | 日露戦争開戦 [2月8日] |
宇野要三郎(26)、大学を卒業し判事となる。(初任地は神戸?以降大津、浦和、東京地方…) 屋代ジョウ[金+丈]三(35)、本多流印可 [4月] |
1905 (明治38) | ポーツマス条約が結ばれる 夏目漱石『吾輩は猫である』連載開始 |
神永政吉(20)、雪荷派星野忠徳について弓道を始める。のち本多利実に師事 千葉胤次(09)、父に日置流を学ぶ 本多利実(69)、学習院弓術教授 [2月] 斉藤友治(00)、誕生 [2月8日] 浦上直置(78)、大日本武徳会弓術教士となる [5月] 浦上直置(78)、死去 [11月22日] |
1906 (明治39) | 島崎藤村『破戒』刊行 |
宇野要三郎(27)、岡内木(58)に師事し紀州竹林派弓術を学ぶ [4月] 本多利実(70)、千葉師範学校弓術部教師 [4月] 大内義一(26)、大和流・森山崇徳から免許 [4月] 本多利実(70)、千葉専門医学校弓術部教授 [9月] |
1907 (明治40) |
大平善蔵(37)、日本鋸工場を創設、会津鋸ハンマー打ちの創始者。 東京帝国大学弓術部(?誰が主として動いていたかは不判)、『日置流竹林派弓術書』の発刊計画。[11月] (参照: 東大弓術部HP内弓術部の歴史) |
|
1908 (明治41) |
碧海康温(24)、大学を卒業し満鉄に奉職 本多利実(72)、『日置流竹林派弓術書』を著す。利実が註を書き、坂本真一、碧海康温らが中心になって編集、発行所は取締役の西山久二郎。このころ、本多利実が弓術所を元に学生に講義 [4月] (参照: 東大弓術部HP内弓術部の歴史) 岡内木(60)、大日本武徳会弓道範士(年金五百円) [5月] |
|
1909 (明治42) |
大日本武徳会、財団法人化
この年より明治44年にかけて五人男 (阿波研造・石原七蔵・大平善蔵・徳永純一郎・長谷部慶助) が利実門下に 本多利時(09)、8歳より祖父利実(73)に本多流弓道を学ぶ 本多利実(73)、大日本弓術会教授、自宅に弓学館を開設 [4月] 大平善蔵(35)、本多利実(73)に竹林派弓術を学ぶ [7月] 阿波研造(29)、仙台に転居し教楽院丁に道場を開設 |
|
1910 (明治43) |
日韓併合 石川啄木『一握の砂』 |
阿波研造(30)、10月より旧制第二高等学校弓術師範 石原七蔵(39)、大川薫彦没後、跡を継ぐ。(また『朝嵐』「本多流の射手たち」(本多利生)]によれば、大日本弓術会入会もこの年) |
1911 (明治44) | 幸徳秋水ら刑死 [1月24日] |
大平善蔵(37)、(恐らく本多利実(75)より)皆伝 [5月] 石原七蔵(40)、本多利実(75)より免許皆伝、生弓会師範 (『朝嵐』によれば生弓会発足はこれより後。生弓会ではなく大日本弓術会師範?) [5月] |
1912 (明治45) | 明治天皇崩御 [7月30日] |
浦上栄(30)、徳山勝弥太(43)より免許 徳永純一郎(48)、上京し竹林派弓術を学んでいた本多利実(76)より免許皆伝、大日本弓術会師範 [5月] 稲垣源四郎(00)、誕生 [5月6日] 魚住文衛(00)、誕生 [3月10日] |
幕末 [1774-1867] | 明治 [1868-1912] | 大正 [1912-1926] | 昭和 戦前・戦中 [1926-1945] | 昭和 戦後 [1946-1989] | 平成 [1989-1995] |
ナビゲーション |
このページのトップに戻る | 近現代弓道史年表のトップに戻る | Kyudo Online Library Projectに戻る |